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ツナワタリマイライフ

日常ネタから技術ネタ、音楽ネタまで何でも書きます。

「弱いつながり 検索ワードを探す旅」を読んだ

はじめに

読んだ。

弱いつながり 検索ワードを探す旅

弱いつながり 検索ワードを探す旅

勉強の哲学から、"存在論的、郵便的"が参照されていたので、東浩紀を1冊読んでみようと思い、チョイス。パッと見の読みやすさは、哲学専攻者というよりは一般大衆 - 観光客になりうる人間向けに書かれていて、楽に読めた。

「哲学とか批評とかに基本的に興味がない読者を想定した本」です。飲み会で人生論でも聞くような気分で、気軽な気分でページをめくってくれれば幸いです(p15)

はじめに - 本書の主張

前提として、我々は今いる環境に規定されて生きている。自分が能動的に、主体的に生きているとしても、それは環境に生かされている。哲学的ルーツは明示されていませんが、冒頭からそう述べられています。

ぼくたちは環境に規定されています。「かけがえのない個人」などというものは存在しません。ぼくたちが考えること、思いつくこと、欲望することは、たいてい環境から予測可能な事でしかない。あなたは、あなたの環境から予測されるパラメータの集合でしかない。

だからこそ、「環境を意図的に変えること」「検索ワードを変えること」「生活にノイズを加えること」が重要だ、というのが本書の主張です。

ネットは強い絆 - 強固に結びついた絆をより強くするのには向いています。逆にリアルは弱い絆 - 偶然出会った誰かに職を紹介されるような - 弱い絆で溢れており、同時にノイズも溢れている。だからネットからでて旅にでて、ノイズを取り入れて検索ワードを変える体験をせよ。今後の章は主に旅によって検索ワードが変わった実例が述べられています。

これはその通りで、実感レベルでも人間は環境によって変わるし、環境が変わらないとなかなか意識は変えられないでしょう。そしてgoogleに支配された世界ですが、googleは知りたいことは教えてくれますが、知りたいことを知るための検索ワードは教えてくれません。検索の仕方がわからない場合があることは当然起こりうる。

ネットでは自分が見たいと思っているものしか見ることができないからです(p34)

書きたいと思う事、みたいと思う事しかネットには現れない。それを旅を、旅によって得る検索ワードによって、その限界を超える、と主張しています。

僕自身も、旅に出て、どうやって検索ワードを増やすか、それを本書と一緒に考えたい。

ダークツーリズムと観光客

今僕もつられて作者が近年書いた"ゲンロン0"を読んでいますが、その本でも「観光客」というのが1つのテーマです。

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

本書では福島原発チェルノブイリ原発アウシュヴィッツ収容所など、負の遺産を観光する「ダークツーリズム」を例に、観光地化し、観光客としてリアルを知ってもらうことの重要性を説いています。観光客は気軽で無責任だからこそ、開けるものがある。確実に復興や救済にコミットしろ!というハードルの高さであれば誰も近づかず、いずれ風化してしまうでしょう。その点観光地化して後に残すという考えは僕は賛成です。

観光地というと妙に「お気楽で」「真剣でない」「あそび」のニュアンスがつきまとうので、著者はその限界を超えたいのだと思います。しかし、福島観光地化では苦労されたようです。とても良い挑戦だと思うのですが。いずれにしても僕はまだその「リアル」を見てすらないので戯言なのですが。

村人であることを忘れずに、自分の世界を拡げるノイズとして旅を利用する事。旅に過剰な期待をせず(自分探しはしない!)、自分の検索ワードを拡げる経験として、クールに付き合うこと。

村人、つまり戻る場所はある。旅人のようにずっと点々としているわけではない。いずれ戻るから、旅は観光になる。ふらふらしていてもいい、何をしっかり学ばなくてもいい、のちにでる"偶然性"によって様々な出会いをして、検索ワードを増やして帰ってくるのがいい、そういう観光客であれ、と言っています。いいですね。

表層文化論と言葉にできない痛み

3章のアウシュヴィッツで触れられていますが、

表層文化論というのは、簡単に言えば、絵画や映画、文学、建築などを「記号の構造」に焦点を当てて分析する学問です。(p65)

かつてのヨーロッパの知識人たちが、アウシュヴィッツという表層不可能な体験、つまり「言葉にできない体験」を言葉にする事に尽力したのと同じように、ぼくおまた、たまたまではあれ福島第一原発事故のような大きな事件に遭遇したからには、似た責務を負っていると考えています(p67)

そしてそのためには現地に行くことが大切だとも、述べています。

同時に「誤配」の概念についても述べています。

言葉にならないものを、それでも言葉にしようと苦闘したとき、その言葉は本来の意図とは少し異なる方法で伝わることになります。哲学的な表現を使えば「誤配」されることになります。そしてその誤配を通して、ぼくたちは、言葉にならないものそのものは知る事ができないけど、そんな言葉にならないものがこの世界に存在する、その事実だけは知ることができる。要は、記号を扱いつつも、記号にならないものがこの世界にあることへの畏れを忘れるな、ということです。

だけれども、その言葉にならないものはきっとリアルにしかないし、リアルを体験しないと、言葉にならないものを"感じる"こともできない、そしてそれはネットにはない。そこに触れるために、近くためにもやはり今と違った検索ワードが必要なんですね。

言葉にならないものと言えば自分自身の感情についてよく浮かべますが、人々の悲しみ、ひいては大事故で起こったことそのもの、その悲しみ、悲劇は、言葉に"しづらかったり"、安易に言葉にするとそれこそ"誤配"を招いてしまう、それに慎重にならざるを得ない。だけれど無関心でいていいものではない。

なぜ私たちは言葉にできないものを言葉にする努力を、あるいは言葉にできなくても感じようと、リアルに触れようとするのか、すべきなのか。

本書の主張の先に飛んでしまうが、そういった外の世界の悲劇や動向に興味がない人間が - ネットやバーチャルで十分だという人間が - 増えていることの危惧があると思う。著者の哲学は「よりよく生きる」ための思想であり、村人でいては自分自身を変えられない、つまり「かけがえのない人生でいられ」ず、環境に規定されたコードの中で生きるしかないという前提のもと、それを超えるには旅にでて、言葉を知り、言葉を増やし、また旅に出ることで自分自身を変える - それが「よりよく生きる」の1つの解なのではないか。

まだ途中なのに結論めいたところに達してしまった。いかんいかん。

欲望と移動時間

4章では今や知ろうと思った情報は簡単に検索で手に入る(一方で検索ワードを知らなければ一向にたどり着けない)わけで、いかにその情報を知りたいという"欲望"を生むかについて述べられています。

なぜ僕たちはわざわざ時間とお金を使って、遠くへ行き、"観光"するのか。別に"情報"を知りたいだけならgoogleストリートビューでもいい、今後もバーチャルリアリティの発展にともない一瞬で世界旅行を体験し、一瞬で日常に帰ってこれるかもしれない。

本書では旅、いや観光の目的は情報ではなく欲望であると述べています。

身体を一定時間非日常のなかに「拘束」すること。そして新しい欲望が芽生えるのをゆっくりと待つこと。これこそが旅の目的であり、別に目的地にある「情報」はなんでもいい。(p84)

この拘束された時間にいろいろ考える。考えるうちに次の欲望がでてくる。あるいは体験したこと、見たことで別の欲望がでてくる。それが旅の本質だと述べています。

「体験こそが全て」とかいう言葉でぶん殴られるよりよほど説得力がありますよね。この前提に基づいて、(本書の後半ででてきますが)旅をして、旅で得た新しい言葉ではガンガン検索せよ、だけどSNSは切っておけ、という主張につながるわけです。

確かに脳の仕組みとして、たくさんの知覚で刺激を受けた方が記憶に結びつくという話はありますが、それよりも拘束された移動時間に何を考えるか=その時間を次の欲望を生む時間としているわけです。

しかし、情報への欲望はなぜ持たないといけないのでしょうか。情報を提示する側にとっては、確かに欲望を持って検索してもらいたいが、本書が推奨する観光客にとって、検索の欲望を連鎖させることで、観光を連鎖させること以外に何か目的はあるのでしょうか。本書では、移動時間に深く思考することが目的、としか述べられていません。

具体的な例としてはすでに知ってしまっている情報(例えば観光地の映像)に対して実際の感情でタグ付けすることをあげています。

本章では前半のチェルノブイリ原発の風化を防ぐための観光地化の施策と並べて、福島第一原発の悲劇の風化をどうやって防ぐかを考えるとともに、チェルノブイリ原発から風化させないためには「情報の提示ではなく感情の操作(p79)も必要」であることに気づき、情報を検索する欲求を喚起する必要がある、ここまでは分かる。

その後いきなり主体が旅をする観光客の立場になったため論理が飛んでいる。観光客としては情報を得るのではなく、旅によって時間を拘束されることで思考を巡らせ、次の欲望を見つけるべきだ、これも、観光を続けるためには必要だと分かる。

これはおそらく、「言葉にできないものを見つけること」につながってくると考える。本章では最後に「情報はいくらでも複製できるけど、時間は複製できない。」(p85)と述べている。このことは、旅をして体験することで、複製不可能な、行ったひとにしか分からない体験(既に得ている情報への感情的タグつけ)をすることと、それ自身が複製不可能であることから、前章で語られた「言葉にできないもの」に近づく努力をせよ、それを繰り返すこと(次の欲望を見つけること)でかけがえのない自分を見つけなさい、ということと暗につながっているのではないか。

あえて本章前半の欲望がなければ検索されないということと関連付けるのであれば、負の遺産を風化させまいと観光地化させる立場と逆の立場からみると、観光客の我々にとっても、そのリアルな(言葉にしようのない何か)にたどり着くためには、検索ワードを変えるために、欲望の循環を行うために、旅に出なさい、ということになる。

同じ事をぐるぐる言っていて、この章はうまく着地しなかった。それぞれの主張は分かるのだが、そこの関連性を言葉にできなかったので次の章に進むとする。

言葉のメタゲームと憐れみ

本章は哲学的内容を含むため、内容の整理に留めたい。

  • フランスの哲学者、ミシェル・フーコーの著作に「言葉と物」というのがありますが、人間の現実は要は言葉とモノからできています。(p91)
    • 言葉で構成されているという思想
    • 実際のモノが大事だという思想
  • ジャック・デリダ - キーワードは「脱構築」です。あらゆるテキストはその解釈の仕方によって、どんな意味でも引き出せるという考え方です。デリダによれば、言葉というのはじつに頼りになりません(p93)
    • 議論はいくらでもメタ化することができる
  • ネットは原理的に、「あるひとが検索で辿りついた世界観」と「別のひとが検索で辿りついた世界観」を調停することができないメディア(p98) - キャス・サンスティーン
  • 記憶の書き換えに抵抗するために「モノ」を残す
  • 物語が多様で調停不可能でも、最後は現場に行くことで、各人が「自分のチェルノブイリ」を発見する事ができる。しかし記憶が書類だけになってしまうと、そういう調停の可能性が失われてしまう。(p105)
  • ホッブスやロック - 人間は自然状態では争いを止められないのであり、だからそれぞれの権利を制限し、社会契約を結ぶのが「合理的」 - 人間は理性的で論理的で、頭がいいので、自分の本章を抑圧し社会を作る(p107)
  • ルソー - 人間は本来は孤立して生きるべきなのに、他人の苦しみをまえにすると「憐れみ」を抱いてしまうので、群れを作り社会を作ってしまう - 社会契約の根拠は合理的な判断にではなく、むしろ動物的な感情にある(p108)
  • 同様にアメリカのプラグマティスト、リチャード・ローティ - 人間の連帯で重要なのは理念の共有ではなく、「あなたも苦しんでいるのですか」といった想像力に基づいた問いかけ(p109)

人間は思想は共有できない。モノしか共有できない。だから新しいモノに触れるため、旅に出よう。(p111)

前章でつながらなかった検索欲求、すなわち欲望について、この章では欲望 もモノであると言っています。欲望は検索したいという、知的欲求だけではなく、性欲もそうでしょう。そういった欲望を理性的、合理的に判断できない、人間は弱い、だからこそその憐れみをもって社会を作るというルソーの思想に対する著者の解釈には納得できますね。

ここにでてきた哲学者や思想については今後復習するための手がかりとして残しておくことにします。

強い絆と弱い絆 必然性と偶然性

偶然と必然の関係。「この1回の人生」と統計の関係。それがぼくの哲学のテーマであり、また本書の基底にある問題意識です。

結局、統計的に最適化された世界で生きていく、ネットの世界で勝ち抜くには体力勝負しかない。人間はいずれ老いる。確かに最適化された戦略を選べば、体力が持つ限りは成功を得られるだろうし、最適な検索ワードを得て最適に生きていくとそれなりに楽しく生きていけるでしょう。だけれども、あえて偶然に身を曝そう、だって人生は一度きり、統計的には寿命は80年だがいつ死ぬかわからない、そういった主張が書かれています。

やはりこの章、偶然性と、ネットの検索で得られる結果と、自分がどう自分らしく(あるいはかけがえのない人生を送るか)生きていくかについては、僕も非常に興味があり、共感を得ました。総括の章で述べるとしましょう。

観光客の5つの心得

ここは最後のまとめで、いわゆる技術的な部分です。自分が引っ張れるようにタイトルだけ述べておきます。内容が知りたい方は本を手に取ってみてください。

  1. 無責任を恐れない
  2. 偶然に身を委ねる
  3. 成功とか失敗とか考えない
  4. ネットには接続しておく
  5. しかし無視する - 日本の人間関係は切断する

本書のまとめ

  • ダークツーリズム(チェルノブイリアウシュヴィッツ)を参照し、風化してしまうものを風化させないためには観光地化が有効であること
  • モノを残すことで、後からでも各個人が触れ、各個人が自身の中に物語を作り、解釈することが可能であること(逆に記憶の継承は頼りないこと)
  • 検索ワードを変えるためには旅にでて、ネット検索では得られない言葉やモノと出会うこと
  • 情報を得ることが目的ではなく、検索ワードを増やすための旅に出る。旅は時間的拘束を伴うため、次の欲望を生むことできる

などが本書の主張でした。観光、旅、モノの継承、その哲学的背景が、コラム形式ででてきたので、完璧につながりがあるように述べられてはいませんでしたが、そのそれぞれがゆるくそれぞれとつながっており、著者の関心事項であることはわかりました。

自分の旅行観

最後に、本書の重要テーマである「検索ワード」「偶然性」について、自分の考えを述べます。

僕は旅が好きです。しかし、何のために旅をするのかについて、常に考えてきました。旅には、失敗もあれば成功もある。あるいは「無難な」旅の仕方も知ってきました。その上で、(本書の哲学的見解とは離れますが)"すべての旅は最高の旅である"という1つの結論を得ていました。これには「(ある程度のガイド - 基本的な旅程を準備した上で)偶然性に身をまかせ、それを全て受け入れ、かつ、それを楽しめる仲間と行くのであれば、すべての旅行は最高になる」という結論です。

逆に、今でも、(小さい例でいえば飲食店を選ぶときでさえ、)検索することに対する恐れがあります。というのも、最近の旅でも、友人が検索して評判がいい店にいったらあらゆる店が最悪で、「ネットはあかんわ!勘でえらぼ!」となり、ふらっと歩いて入った店が最高だった経験が1度ではなくあります。これについてはネット検索で評判がいい=自分の中で期待値があがる ことで残念さが増す、という考察もあるのですが、僕はそれだけじゃないと考えています。

これは著者が述べる、「何でも合理的に、正解を選ぶのをやめましょう」という主張と重なると思っています。

今回の僕の例は検索ワードを変えないと見える世界は変わらないよという主張とは完全に重なりません。どちらかというと蔓延している口コミサイトとの付き合い方になるかもしれません。しかし視点をあげてみると、「同じような検索ワード」だからこそ、同じ口コミサイトにたどり着く、と捉えることもできます。

僕は本書をヒントに、ネット検索はおおまかな指針を立てるため、あるいは現地での細かい情報収集のために使い、偶然に身を任せる割合を増やそう、と思いました。

ですが、"観光地化"された場所というのは、ネット検索されやすく(本書でフクシマがそう目指されているように)なったものであり、安易な検索ワードでたどり着きやすい場所だと思っています。それは結果としてモデル化された、あるいは他者と同じような観光 - 旅行になりうるのではないか。それはネット検索で上位の観光地に行くこと、口コミサイトで上位の飲食店に行くことと大差ないのではないか?

そうすると、大事なのは、ネット検索上位だから、口コミ上位だから、という動機で行くのではなく、本書でも述べられている通り、自分の欲望のままに、旅をすることが、やはり大事なんですね。

自分の欲望を叶えるために、その補助としてのネット・スマホがある。そして可能な限り偶然性に身を晒す。そういった旅をしていきたい。

もう1点、本書で語られていない、自分自身の考えを述べると、誰と行くかについてです。

僕は旅は(偶然性も手伝って)発見の連続であり、それを受け取る個々人の感性の交換・共有がしやすい場所だと思っています。前で述べた「偶然性を受け入れられ、楽しめる」仲間であることはもちろん前提ですが、本書で述べられている「拘束された時間」は、1人旅であれば自分が思考する時間であるならば、お互いの感性・価値観を交換する時間にももちろんなり得るはずです。

だから、目的を満たす旅ではなく、移動時間にお互いの価値観を交換するような、そんな旅でありたい。もちろん、偶然な出会いとともに。

1人旅も、友人との旅も、両方楽しんでいきたいですね。こんなに長く書けてびっくりしてます。旅、考えたかったんでしょうね。ぼくは何のために旅をしているのか。GW、ちょっと旅にでてきます。その前にこの本を読めて、そして見返して、自分の考えを確認できてよかった。