ツナワタリマイライフ

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「はじめて考えるときのように - 「わかる」ための哲学的道案内」を読んだ

はじめに

読んだ。

すっかり哲学にドハマりした僕は、わかりやすくハマるために本屋に行き、この本に出会った。考えることを考えたい、その手をとってくれそうな本に出会い、まさに思惑通り、手を引いてくれた。読んでよかった。

きっかけは「勉強の哲学」

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そして同期と考えること、勉強することについて語り合ったりもした。

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それらがあってのこの本は、それぞれの本や会話が「こういうこと言っていた」「あれはこういうことだったのかも」とつながりを発見できることができて、うまいこと勉強の楽しさに気付けている。

全部で6つの章から成り立っていて、それぞれで大きなテーマがある。順に引用しながら自分で考えてみよう。

1. 「考える」って何をすることだろう

「考える」っていうのは、よくわからないけれど、とにかく何かをすることだ、そう思っているかもしれない、でも、どうやらそれは違うみたいだ。「ずっと考えている」という言い方をぼくたちはする。そしてそれは厳密に言うとぜんぶ嘘になってしまうように思えてくる。(p24)

考えることを考える第一歩の章。考えることは行為か?「きみのことをずっと考えていた」とはどういうことか?と身近な例をあげながら、考えることを考えていく。

逆に「考えてない」を考えることで、さらに考えることをせめていく。ある問題に取り組もうと考えて、そのときその瞬間にその問題のことを頭に浮かべてない状態で、ある瞬間何かのきっかけでその解答が浮かぶことだってあるだろう。そのときは考えていなかったのか?

考えるっていうのは、そうした習慣的な結びつきの網の目から出ていくことだ(p41)

コップを見て水をいれるものだと思うことは考えることではない。木を見て木だと思うことは考えることではない。既存の常識 - ここでいう"習慣的な結びつき" から離れることが考えることであると主張している。

僕は以前の対談でこう言っている。

考えるって言葉は曖昧。考えるって行為は曖昧か、あるいは行為であるなら曖昧ではないか

考えることを行為として捉えようとした。そしてこのとき、無意識に考えることに「行為」と「言葉そのもの」で捉え方が違うことに気づいている。本書の「考える」ことはおそらく後者だろう。というのも、考えることは行為になりえない。

本書で考えることは、「耳を澄ましている」という答えを導いている。

ある瞬間に「思って」いなくても、考えはじめたときから、そのことについて、「思って」いないところで、そのことについて敏感に、それは全身で、あるいは自分の身体すらの外側で(これは思想は身体に宿るという哲学者の思想とぶつかりますね、誰だっけな、あとで調べておこう*1)耳を(感覚を)澄ましていることになる。

そしてこの主張には隠れた前提がある。考えることには、問いが前提だ。

「うまい問題を考えるんだ」と主張していた同期の言う通りですね。

問いが曖昧なまま考えることはできないのだろうか。

上記の問いは問いとしては曖昧ではない。

例えば問いが曖昧な場合、、、「最近お酒について考えてるんだ」と言うと、「お酒の何を考えているの?」と返したくもなる。

「いや〜お酒って飲みすぎると酔うけど人間って何で酔うのかとか、酔うってそもそもなんなんだとか、お酒ってなんでジュースより好きなのかとかさ〜」と答えると、問いがバラバラで一意になっていないだけで、おそらく問いそのものはある。中には考える必要すらなく、勉強する(知る)ことで解決する問いもあるだろう。科学的に、アルコールと酔いが説明できるように。

あぁ、考えた。考えるって何かを考えたぞ。僕は確実に哲学にハマりつつある。。。(笑)終わらないのでいったん次に進む。

2. 問いのかたち

先ほど先に書いてしまったが、ここで考えることに付随する「問い」について触れられている。考えることは、何を問うか、問うことを問うこと。

そして問うためには、学びが必要で、逆にいえば学べば学ぶほど、問題が増える。

何かを学ぶということは、もちろん、問題に答える知識や技術を身につけるという意味もあるけれど、それは実は学ぶことの本質ではない。ぼくらは本や学校で、これまでひとが見出してきたさまざまな秩序、道筋を学ぶ。だけどそうやってさまざまな「型」を学ぶことによって、いままで見えていなかった、あるいはぼにゃりとしか見えていなかった「型やぶり」なものが見えてくるようになる(p76)

問いに答えるために学び、学べば問いが増える。こうして問いと変えながら、僕らは学ぶ。学んで、問う。問うて、学ぶ。これこそが考えることかもしれない。

3. 論理的に考えるだって?

論理は考えないためにある(p87)

「論理的に考える」ということばに対するカウンターとしてこの章はある。カウンター、というよりは、「気をつけなさい」という警笛にも聞こえる。

そして「論理的」であることと「考える」ことの関係性について触れている。論理的なものは、考えなくても答えが出るものであるから、論理は考えないためにある、と言う。

この章はちょっと難しくて、完全には腑に落ちていない*2

ある問いには、論理学的言葉・・・ 「である」「は」「または」しか重要ではない、論理にはそれぞれの問いに含まれてる言葉、存在、前提がどうであるかとは切り取って論ずることができる。一方で、論理は言葉の意味をきちんと捉えることとも言っている。

さらに論理だけやる場合、問いは無制限に広がってしまう。あるサイコロを観察したとして、「サイコロの面では7つではない」「サイコロは球ではない」ということも立派に論理的だ。しかし普通はそういうところまでは考えない。

考えるときに論理は観察や推察が必要だけれど、もっと重要なのは無数にある「論理的に正しい」事象から取捨選択することであり、それがコンピュータでは難しい(後の5章に続く)ということを主張している。

この章は重ねて言うけど、難しい、というか、つながりを持って主張を理解することができていないかもしれない。

  • 論理は考えることではない?
  • 考えることは無数の論理から必要なものを取り出すこと?
  • 論理的に正しいことを並べることは考えることではない?

しかし、論理は役にたつ。論理学的用語によって前提や言葉の意味を問うことができる。論理は前提や言葉の意味と無条件に成立するからこそ、言葉の意味を問うことに役にたつ。

論理の言葉は最低限使えた上で、言葉をきっちり捉えること(前提を正しく認識すること)を通じて、無数にある論理的に正しいことを取捨選択することが、考えることなんだ。

本書の内容を必死に反芻して上記のようにまとめた。何かが、何かが足りないのか、本当にそれが考えることだと自分の中で納得できていない気がする。いったんこの結論で次に進みます*3

4. ことばがなければ考えられない

否定はことばで表される。言葉がなければ否定はない(p125)

何かを否定するとき、否定するためには「ある」ことが前提にある。自分の部屋の写真を見て「あっクジラはいないね!」などと言ったりはしない。そして「クジラがいない」という言葉を加えてはじめて「クジラがいない」という否定がなりたつ。つまり、「ないものはない」という主張がなりたつが、この主張には矛盾が孕んでいる。

そこで、"言葉がなければ"否定はない、という主張につながる。何かの存在を否定するためには、言葉がなければ、否定することはできない。言葉で補わない限、そこには「あるもの」しか意味しない。ないこと、すなわち否定を意味するためには言葉が必要であり、それが「言葉がなければ否定はない」という主張だ。まさに、この「ない」主張もこの言葉が必要で、メタ的に成り立っている。

次に、チンパンジーや自動ドアといった動物や機械を使って「考える」ことについて再度考える。考える"風に"見えるためには、単に刺激に反応しているだけではいけない。ああしたらどうなるだろう?こうしたらどうなる?こうしてみよう!こういう過程が「考えてる」という風に見える。可能性を考えることが"考える"ことに少し近く言葉である。

「もしかして」の世界に入り込んだ。現実性から可能性の世界へ入っていったことを意味している(p134)

さらに、言葉を使えば、可能性の世界 - 箱庭を構成することができる。

その点、文字や音声は手軽だ。どこでもササッと開陳してそこに世界の箱庭を作ることができる(p147)

  • 考えることは可能性の世界で試すことである
  • 言葉を使えば可能性の組み合わせを簡単に試すことができる

この2点より、「言葉がなければ可能性はない」と主張する。だから、言葉がなければ、可能性の否定である、「否定」もない、というわけだ。

ここまでが引用およびまとめだが、僕自身、哲学、思考、伝達に「ことば」が必須であり、言葉の持つ意味や言葉の魅力についてずっと考えてきたので、本章は新しい視点を与えてくれた。

考えることと、ことば。

僕は今こうやってブログに書く事で本の主張を整理したり、自分の気持ち・考えを明らかにしています。

ことばの上で考えてる。

ことばは、伝えるツールであるとともに、思考を固定させる記号でもある。*4

言葉とモノ。言葉と概念。(社会的に・恣意的に)それらは結びつけられ僕らの日常にいるけれど、考えることが現実をよりよくしよう - 哲学の目的の1つかもしれない - であれば、現実の可能性について言葉にすることで、現実がどう変わりうるか試行錯誤するために、言葉は必要不可欠であるという意見には納得できる。

5. 見えない枠

関係あるのか、ないのか、それが問題だ。ハムレットよろしく懊悩している(p160)

この章では人工知能を搭載したロボット、R2D1の事例を元に、無数にある選択肢の中から「関係あるもの」のみを考える際、どうやって「関係あるかないか」を判別するのかという問題について扱う。これは3章での論理の話からの継続だ。

参考:フレーム問題と世界

この木箱が爆発するかどうかに、部屋の隅にあるコーヒーカップの残量が関係あるかって?"常識"で考えれば関係ないってわかるだろう!ではいったいそれをどうやって関係ないと判断するのか。どうやって"常識"を知るのか。

余談だが、常識についての疑問は堀江さんの教育論についての書評で述べた。常識なんてものはない。あるいは定義が不明瞭で、各個人の経験あるいは社会によって異なる、"ふわふわした存在"だ

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たんなる「常識」なんていうのはありはしない。(p173)

結局常識は目安にすぎず、その目安も同じようにロボットには判断できない。

疑いは局地的でしかありえない(p183

哲学は徹底的に疑う。常識なんてもんじゃない。そもそも自分が今意識している今は現実なのか?というレベルまで。

ただし、ありとあらゆることを疑うことはできない。ありとあらゆることを疑うこと、しかし、ありとあらゆることを疑いつくすとやがて「この世の絶対的真理は何か?」という境地に達し、そうではないという方向になってきたのはこれまでの哲学史にある通り。

すべてを疑うことはできない。疑うためには、疑わないでいい点を足場にし、その点は正しいとした上で疑う必要がある。

“常識"に似た、何かを足場として、その中で、何かを疑い続ける。その過程でまた足場が変わる。

考えるってことは、そんなふうに軽やかに踊ってみせることだ。(p187

この考え方は「勉強の哲学」での勉強の方法にとても近いように感じた。勉強して、いったん足場を仮固定して、次の場所へいく。この例では「学び」を有限化する話だったが、学びを「疑い」と見なすなら、同じことだろう。

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6. 自分の頭で考える?

自分の頭で考えるというのはまちがいで、頭の外で考えたり、ひとといっしょに考えたりするのじゃ(p195)

この章でも考えることを考える。それも、考える場所について。自分の頭で考えること、いや、自分の頭で「思う」ことだけが考えることではない。

だって、筆算をしていも、紙の上で考えているだろうし、文字を書きながら考えたり、喋りながら考えたり、身体の外で考えていることはいくらだってある。

まとめ

この本の最後に考える技術について素晴らしいまとめがあるので題だけ紹介する。詳細は本を読んでほしい。

  • 問題そのものを問う
  • 論理を有効に使う
  • ことばを鍛える
  • 頭の外へ
  • 話し合う
    • 自分の抱えている問題をひとに伝えようとすることは、問いのかたちをはっきりさせるためになによりも役に立つ
    • さまざまな意見に出会うこと、いろんなものの見方に出会うこと、新しいことば、新しい意味の広がりに出会うこと。そうしてはじめて、ぼくはぼく自身に出会えるわけだしぼくが思ってもみなかったところに踏み込む事ができる(p214)

おわりに

いろんな哲学をバックグラウンドにしつつも、これほどまでに「はじめて考えるときのように」考えることを導いてくれる本であることに驚き。考えるとは何か。そして考えるときに僕たちはどうするか。実現例を交えながら、そのとき僕たちは何をしているか、何を浮かべているかを例に、考えることについて考えるヒントをくれている。

考えるときに有効なステップは「まとめ」で述べた通りだろう。本書を通して僕は考え方ではなく、考えるとは何か。そして考えることで何を実現したいかを考えたい。

僕は考えることは、本書が示す、"長期的に、問いについて全身で研ぎ澄ます状態"でもなく、"(僕の同期氏が定義した)思考を巡らせること"でもなく、「問いについての現時点での解を見つけるための、仮説を用いた試行錯誤のプロセス」であるとしたい。

「でもなく」という言葉を使っておいて何だが、その両者とも否定しないし、包含し得る。本書の定義では問いを決めた時点で解が出るまではたとえ「ラーメンうめぇw」と思ってるときや、「うぉぉこの子超可愛い」と思った瞬間までも考えるまで含むとはさすがに言い難い。かと言って、後者の、自分の頭で思考を巡らせているときだけに限定したくもない。

僕はむしろ、自分の頭より、こうやって文字にして"考える"ことが多い。

こんな風に、僕は読んだ本と、友人との会話を持って、"考える技術"に沿って、"考えることを考えた"わけだ。

  • 頭の外で考えること
  • 言葉による試行錯誤をすること
  • 適切な問いであるか問うこと

このあたりが重要だと感じた。良い機会を与えてくれた著者と同期氏に感謝。

*1:調べました。メルロ =ポンティ - 身体の哲学

*2:腑に落ちるって、どういうことだろうね!

*3:引用と自分の意見を区別すること、足場を仮固定して先に進むこと、大事

*4:関係ないが、言葉と実態の意味づけによってこの世界は構成されている、ソシュール構造主義は後で学び直したい。