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「勉強の哲学 来たるべきバカのために」を読んだ

はじめに

読んだ。

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

実に面白かった。本書で学んだ勉強の仕方を、このブログでも習ってみようと思う。

読み返しながら、自分でもう一度味わって、自分の感想を言うような内容なので、本そのものの紹介にはならないかもしれないし、読んでない人が見てもあまり面白くないかもしれません。

第1章 勉強と言語 言語偏重の人になる

勉強とはかつてのノっていた自分をわざと破壊する、自己破壊である。言い換えれば、勉強とは、わざと「ノリが悪い」人になることである。(p20)

勉強は自己破壊であり、ノリが悪くなることである。それは「コード」と呼ばれる、環境特有の「こうするもんだ」から離れて、考えるから、その環境から自由になろうとするからである。

環境特有の、コードに無意識レベルで支配されているという実感はもちろん普段からなくて、でも確かに、それはあると確かに実感できる。環境が変わると、のちに出てくるように同じ言葉でも通じなかったり、例えば業界特有の言い回しがあったりする。あれもコードだ。

言葉の意味は環境のコードのなかにある (p33)

僕はこれまで言葉が持つ意味は何かを、とことん考えてきた。言葉が伝わったり、伝わらなかったりするのはなぜか。言葉には不思議がある。そこに言葉がコードに支配されているという観点はこれまでなかった。それは当然で、言葉の意味はコードによって変わる。あるいは、別のコードに支配されている人間同士であれば当然解釈は異なり、伝わったり伝わらなかったりするのだ。

もっと言えば、言葉はただのツールで、言葉の持つ意味以外をいかにして伝えるかが大事だとも思っていた。伝えるために、言葉は道具として存在するが、絶対に完全にはならない。完全に言い尽くすことはできない。だけど丁寧に言葉を選ぶ。わかったようなつもりに、いかに近づけるか。本書とは方向は違うが、僕は伝えること、伝えたいこと、そのツールとしての言葉に、昔から興味があった。そういった点で、コードに支配される言葉という観点は非常に面白い。

言語それ自体は環境から分離している。言語それ自体は、現実的に何をするかに関係ない、「他の」世界に属している。(p36)

言語の言語的性質は所詮コードによる。言語から言語的性質(目的的な、コードに支配された意味)を剥ぎ取ったあとに残る、本書でいう「言語それ自体」「器官なき言語」が存在する。究極的に言語はいつでもコードに支配された言語的意味から解放されて、バーチャルな言語世界に生きることができる。言語の言語的意味ばかりに執着して、僕はやはりコードに支配されていました。

慣れ親しんだ「こうするもんだ」から、別の「こうするもんだ」へ移ろうとする狭間における言語的な違和感を見つめる。そしてその違和感を、「言語をそれ自体として操作する意識」へと発展させる必要がある (p52)

言語の言語的な意味をいったんバラし、本書でいう言語の玩具的に捉える、この意識こそが重要だと説いていますね。

新たな環境(コード)に入った時に違和感は、確かに感じます。そこに集中したことは今までなかった。

僕は「言葉遊び」が好きだと、よく仲間に言われます。事実、そうだと思う。 それは本書で言う言語の玩具的使用だったし、後に出てくる享楽的快楽に基づいて、言語を操っていたのだと、まさに思います。

言語の言語的意味を一旦バラし、快楽と、言語的意味から一見離れた言葉を組み合わせて、あらたな「ノリ」として言葉を発し、おそらく僕自身のコードとして仲間に伝染させていく、支配していく、そういうシーンがあります。このように説明できるとは、まさか思わなかった。

第2章 アイロニー、ユーモア、ナンセンス

この章ではまず、端的に要旨を整理してみる。

  • 環境のコードは常に不確定であり、揺らいでいる(p67)
  • アイロニー - 超コード化を進めていくと、コード不在の状態に近づいていく(p86)
  • アイロニーは、「言語なき現実のナンセンス」へと突き進んでいく(p88)
  • ユーモア - コードの不確定性を最大限にまで拡張してしまえば、どんな発言をつないでもつながる、つながっていると解釈しさえすればいい、ということになる(p98)
  • ユーモアの極限は「意味飽和のナンセンス」(p99)
  • 縮減的ユーモアでは、話を細部に絞るだけではなく、意味の次元自体を縮減する(p105)
  • 縮減的ユーモアの極限は「形態のナンセンス」(p108)
  • 個々人がもつさまざまな非意味的形態への享楽的こだわりが、ユーモアの意味飽和を防ぎ、言語の世界における足場の、いわば「仮固定」を可能にする - 「形態の享楽によるユーモアの切断」(p112)
  • 非意味的形態としての言語が刻み込まれた時の痛みを享楽するというのが、言語を使う人間にとって、根本的なマゾヒズムである(p117)

これは後述する読書ノートのようなもので、引用しつつ引用と自分の考えを別にしないといけない、ということで出展を書いてみています。(とはいえ、引用部分以外でも本書の言葉に支配されたように語ってしまっていて、よくないなぁとは思います)

この章は本書にとって核な部分だと思います。個人的には、ユーモアの拡張によって言語が無限に広がっていくことはないと言っていて、それは確かにそうなんですが、それが享楽的こだわりによって仮固定されるというのは「そういう説もあるかぁ」ぐらいで、あまりしっくりは来ていません。

単純に引っ越すコード、それがリアルであろうがバーチャルであろうが、意味の拡張は個々人の人生分しか広がりようがない。それを経験を踏まえた享楽的こだわりによって仮固定と言っているのはわかる。アイロニカルな例でもそうだが、原理的に極限は考えられるが、実際には起こりえない。

後に出てくる有限化を、どうやって有限にするかを、考えたい。

第3章 決断ではなく中断

僕が言いたいことはシンプルです- 「最後の勉強」をやろうとしてはいけない。「絶対的な根拠」を求めるな、ということです。それは、究極の自分探しとしての勉強はするな、と言い換えてもいい。自分を真の姿にしてくれるベストな勉強など、ない。(p136)

勉強はきりがない、それはアイロニカルに追求していっても、ユーモアに目移りしていったとしても、終わり到達することはなく、全て学んだという状態に達することも決してないということ。

ではどうやって勉強を有限化すればいいのか。何の中で比較し、選択すればいいのか。それは信頼できる情報か、自分の享楽的こだわりで選ぶことが考えられる。

自分なりに考えて比較するというのは、信頼できる情報の比較を、ある程度のところで、享楽的に「中断」することである。(p140

そして決断について、気をつけよと主張しています。

絶対的な根拠はないのだ、だから無根拠が絶対なのだ。だから - ここで起きる論理の飛躍に注意してください - 、無根拠に決めることが、最も根拠づけられたことなのである。次のイコールが成り立つ、絶対的な無根拠=絶対的な根拠

極限までアイロニーを繰り返した末の「俺が決めたんだから決めたんだ」は、根拠がないことが根拠になっているということ。

僕は決断主義でした。

正確には、決断主義的に、中断していた。信頼できる情報から、比較するんですが、それは享楽的こだわりに支えられていたかもしれませんが、決断し、納得し、納得したことを根拠にし、振り返らないような生き方をしてきました。

本書の立場は、無根拠を根拠にすることが他者の絶対服従であり、それはコードや環境から自由になろうということと反する、ということでした。

一方で、「中断」と(無根拠を根拠とする)決断はなかなか紙一重だと感じます。

ではどうやって中断が起こるのか、比較を続けた上での、享楽的こだわりによる仮固定のような、中断の仕方が起こりうるのか。

自分自身が持つ「無意味なこだわり」によって選択し続ける。その無意味なこだわりは実は無意味でなく、自分自身の過去の、享楽的こだわりの連続によって生まれたものだ、ということはわかる。

無意味なこだわり=享楽的こだわりによって、比較時の足場を仮固定する。ではどうやって無意味なこだわりを自分自身で何度も生成することができるのか?それには自分が過去にどういう出来事があって今のこだわりが生まれたかに意識的である必要があるとし、自身の欲望年表を作ることを勧めている。

そうやって自分の享楽的こだわりを分析し、どんどん移り変わって、どんどん別のバカになりなさい。どんどん別のこだわりを持ち、比較を続け、勉強を続けなさい、そう主張している。

ここでこの章は終わってしまうんだけど、欲望年表は別の機会に作ってみようと思う。自分のこだわりはここ数年の中でもかなり変化しているように感じるので、分析したい。

そして自分の決断が、中断であるのか、自分で言えるかが、わからない。

第4章 勉強を有限化する事実

ここでついに実践的な技術について触れます。

新しいことを勉強することは、専門分野に入ることです。

「まとも」な本を読むことが、勉強の基本である(p171)

この章は唯一具体的なテクニックを述べているので、理解はしやすい。

  • 入門書から入る
  • 入門書は複数を比較する
  • 教師は有限化の装置である
  • 専門書の信頼性 - 知的な相互信頼の空間から信頼を受けているか(p188)

ここも入門書、専門書、基本書の選び方は、やはり信頼ある(比較を続けている)ひとに従うことを勧めている。

僕もよく、新しいことを学ぶときはまず本屋にいく。そこでもまた、複数の入門書を見て、リファレンス的な教科書を買って、実際にやってみて、考えてみて、書いてみて、あきらめたり、範囲を限定したり、わからない点は深く考えないようにして - それこそ「有限化」して、やっていたので、おおよそ本書の言う通りの勉強法を取っていたことになる。もちろん選択した本が信頼に値するか、までは比較は十分でなかったかもしれないし、それこそ決断主義的に決めていたかもしれない。

僕は勉強はあまりうまくないと思っているので、選ぶものが悪いのか、有限化が下手なのか、それともそのコードのテクストの読み取り方が下手なのか、どこが足りてないのかはわからない。ただ、少なくとも勉強は好きで、いろんなことに目移り的に興味を持つ性格に(幸運にも)あるので、これからも勉強は続けたい。そう思えた本だ。

その他、この投稿では残念ながら徹底はできていないが、

どこまでが他人が考えたことで、どこからが自分の考えなのかをはっきり区別して意識しなければならない。(p199)

出展を明らかにする。研究・学問では当たり前のことですよね。それも意識的にできていなかったですね。

その他、読んだときにメモを箇条書きで取って結びつけたり、kindleだとハイライトが楽なんですけど、紙の本だとつい億劫になって、というか集中したくて読みながらメモ取りたくないんですけど、ちょっとやってみます。

おわりに

僕はこの本で勉強の何を学んだのか。

  • 言語は「こういうもんだ」という環境のコードによって支配され、言語の意味的意味はコードに依存するという考えに納得した
  • 深く勉強するためには、アイロニーにもユーモアにも無限には行けず、おそらく自分の享楽的快楽に基づく「こだわり」によって有限化される ということにも納得した

一方で、

  • 勉強をし続けることと享楽的こだわりの変化の行く末、果ては何だ?(いや、だから、勉強の完成はないんだ)
  • そうであれば、本書の主張は?

とループしてしまった。(笑)

本当にこれが勉強の入り口なんだろうと思う。勉強には終わりがないからこそ、勉強をいかに有限化し、こだわりをもって変わり続けることができる。「それこそが究極の享楽的快楽だ」なのかもしれないし、「享楽的快楽」があるからこそ、勉強ができる、なのかもしれない。それはどちらだろうな。どちらでもあるかもしれない。

いずれにせよ、自分がこれまでぼんやりと感じていたこと、ぼんやりと興味があったこと、興味があったことを具現化してくれた、さらなる一歩に導いてくれたこの本を読めてよかった。著者の千葉先生に感謝。